・増福寺は昔、八幡山放生院(はちまんやまほうしょういん)ともいわれ、八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の伝説が残っています。「増福寺八幡縁起(ぞうふくじはちまんえんぎ)」によると九百年ほど前、源義家が奥州後三年の役の帰りにこの近くを通った説があります。大雨であれた多摩川をわたろうとして祈っていました。すると突然不思議な雲が現れ川の流れを穏やかにしました。義家はこの川を渡り雲の方へ行ってみるとそこに神社がありました。そこは昔増福寺の観音堂の裏山にあった八幡神社です。義家はそこに軍の無事を祈って白羽の弓矢を納め、この村が末長く栄えるようにと願い都に帰りました。そしていつしかここが末長村と呼ばれるようになりました。
・増福寺には昔から近所の人々の信仰を集めている地蔵尊がおります。しかし突然、寺から姿を消しました。村人は焼けたのだろうとあきらめていました。江戸時代の半ば、祐天上人の夢枕にたった地蔵尊は、「我なんじを待つこと久し。我は武州末長増福寺の地蔵なり。末長村に連れていけ」とお告げになったので、祐天上人と一緒に再び増福寺に戻ってきたという説があります。
・増福寺は戦争の空襲で寺のほとんどが焼けてしまい、はっきりとした記録は残っていませんが、源義家の伝説により約千年前にこの地に増福寺があったものと思われます。
本堂について
・本堂は、昭和20年4月に空襲で焼夷弾の直撃により全焼しました。昭和35年8月に再建され昭和59年増築し、今の形になりました。ご本尊様は「大日如来」です。
観音堂について
・昭和20年4月空襲により本堂などの境内の建物が全焼した中、観音堂だけが、奇跡的にそのままの形で残っていました。今の観音堂は平成2年に建て変えられたものです。
鐘楼について
・鐘楼は昭和51年に作られました。それから除夜の鐘が毎年続けられるようになりました。
・鐘は朝6:00この日の平和を願ってつき、夕方は春分の日から秋分の日までが18:00秋分の日から春分の日までが17:00に無事に過ごせた一日の感謝をこめてつきます。
・8月15日終戦記念日は戦没者の慰霊と世界の平和を祈り鐘をつきます。
八幡堂について
・八幡堂は昭和45年地蔵堂として建てられました。
・平成2年に地蔵堂のお地蔵様を観音堂に移し、八幡山の八幡様を入れ八幡堂として残しています。
お地蔵様
お地蔵さまは私たちを迷いや、なやみ、苦しみから助けてくれる仏様です。
お地蔵さまは慈悲の心を持ってきっとあなたの手をさしのべてくれます。すべての仏さまが手をさしのべてくれるようにお地蔵さまも手をさしのべてくれます。
・巡り地蔵
末長には昭和の初めまで、増福寺の地蔵様が家々を巡り歩く風習がありました。
江戸時代の中頃から始まったようですが、願い事が叶うありがたいお地蔵様といわれ、近所はもちろん江戸まで巡ることがあって、増福寺にはなかなか帰ってこられなかったといいます。
現在このお地蔵さまは観音堂に安置され、年に一回一か月ほど有馬、梶ヶ谷、馬絹のお宅を巡っています。
・水子地蔵
「水子」とは流産死産等の理由で母の胎内で亡くなった胎児をいいます。お地蔵様には現世と亡き人とを結ぶ仏としての信仰が古くからあり、特に子を失った親にはその冥福を祈る唯一の仏として信仰されてきました。
・六地蔵
六体のお地蔵さまが並んでまつられています。
仏教には六道輪廻(ろくどうりんね)という考え方があります。六道とは自分のやった行いによって生まれ変わる6種類の世界のことで、その6種類は地獄(ぢごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人間(にんげん)、天(てん)です。これらは迷いや苦しみの世界で、そこから救ってくれる仏さまとして六体まつられています。
・観音
観音堂には観世音菩薩がまつられています。弘法大師が作ったといわれています。
12年に一度午年御開帳があります。
【ペット供養墓】
【八幡堂】
【本堂(内陣)】
【いぼとり地蔵】
【観音堂】
【花まつり 誕生仏】
【摩尼車】
【永代供養墓】
【聖観世音菩薩像】
(伝 聖徳太子御作)
【鐘桜】
【根本伝教大師御尊像】
【水子地蔵】
◎四季の花
天台宗茂岳山観音院 増福寺
JR南武線「武蔵溝ノ口」駅・東急田園都市線「溝の口」駅より
南口5番バス乗り場 東急バス 溝22「蟹ヶ谷」(新作・千年・子母口住宅前)
「末長」バス停下車徒歩7分
東急田園都市線「梶ヶ谷」駅下車徒歩10分
寺院名
天台宗茂岳山観音院増福寺
住所
神奈川県川崎市高津区末長2-34-8
TEL
044-866-7548
FAX
044-866-7684
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